第5章 一度の別れだと思って
看護師がやってきて、南坂海乃の体をもう一度チェックした。大きな異常はないと確認できたのか、ようやくほっと息をつく。
「軽い脳震盪は残ってますね。退院したらおうちでしっかり休んでください。食事は薄味で。傷口は水に濡らさないように」
南坂海乃はおとなしく頷いた。目を覚ましてからというもの、看護師は何かと彼女を気にかけてくれ、対応もどこか柔らかい。
「はい、覚えておきます。ありがとうございます」
看護師は穏やかに笑う。
「早く良くなりますように」
そう言ってから、今度は横に立つ黒谷優へ顔を向けた。さっきまでとは打って変わって、声がきつくなる。
「あなた、患者さんのご家族ですか?」
黒谷優は一瞬きょとんとし、それから頷く。まだ何も言っていないのに、看護師は書類の束を突き出した。
「……あなた、旦那さんでしょう? 奥さんが交通事故で怪我してるのに、サインまで本人にさせるんですか。一番そばにいてほしいとき、どこにいたんです」
「……」
黒谷優は言い返せなかった。沈黙が落ちる。あの電話の中身が脳裏をよぎり、たしかに自分は夫としての責任も義務も果たしていなかった、と胸に小さな痛みが生まれた。
唇をきゅっと結び、彼はそれだけ言う。
「……会計、行ってきます」
病室を大股で出ていく背中は、どこか逃げるみたいに慌ただしい。
その様子に看護師は首を振り、南坂海乃へ同情をにじませた。
「帰ったら自分のこと、ちゃんと大事にして。人を当てにするより、自分で立つほうが確実よ。分かる?」
言い方は婉曲だったが、意味は十分すぎるほど伝わった。南坂海乃は看護師の好意も分かっているから、かすかに笑って頷く。
「はい、分かってます」
看護師が去り、病室には南坂海乃ひとり。
扉の向こうを見つめたまま、彼女は自嘲気味に口元を歪めた。
――人を当てにするより自分。
その理屈を、今日になってようやく骨身に染みた。実の両親ですら頼れないのに、血のつながりもない男に何を期待するというのだろう。
ふと思い出す言葉がある。
男が頼りになるなら、豚だって木に登る。
黒谷優に当てはめると、笑えるほどぴったりだった。
ほどなくして、会計を済ませた黒谷優が黒谷楓花の小さな手を引き、病室へ戻ってきた。負い目があるのか、彼は自分から荷物を持ち、手続きを手伝う。
三人で病院を出ると、黒いベントレーがすでに待っていた。運転手が慌てて降り、後部座席のドアを開ける。
「ママ、支えるよ」
黒谷楓花は目を泳がせながら一歩前へ出て、動きづらい南坂海乃の腕を取ろうとした。
南坂海乃は取り合わない。淡々と自分で乗り込み、楓花には一言もかけなかった。父娘に向ける態度は、冷えきっている。
黒谷楓花が固まった。
こんな扱いを受けたことがない。これまでなら、どんなに叱られるようなことをしても、南坂海乃は必ず宥めてくれた。無視されるなんて、一度も。
目尻がじわりと赤くなる。悔しさと不安に押され、楓花は助けを求めるように黒谷優を見上げた。
「パパ……ママ、楓花のこと、いらないの……?」
黒谷優はそれを見て胸の奥がざらつく。楓花を抱き上げ、言い聞かせるように声を落とした。
「ママがそんなことするわけないだろ。今日は、俺たちがやりすぎた。あとでちゃんと謝れ。怒ってるだけだ」
黒谷楓花は涙の浮いた目をぱちぱちさせた。まだ四歳。どうして南坂海乃が急にこんなに冷たくなったのか、理解できない。悔しい。でも、このまま無視されたくない。
「……うん」
しょんぼりと頷く。
黒谷優は娘を抱いたまま車へ乗り込み、二人の間の席へ座らせた。目で促し、謝らせようとする。
南坂海乃は窓の外、流れていく景色だけを見つめていた。ガラスに映る父娘の小さな仕草が見えても、心はもう動かない。
黒谷楓花は意を決し、そっと身を寄せる。南坂海乃の手をちょこんと引き、やわらかな声で言った。
「ママ……まだ楓花のこと、怒ってる? 怒らないで……。楓花、ほんとに悪かった。もう、おばちゃんに楓花のママになってほしいなんて言わない」
小さな手の温度が伝わり、南坂海乃の胸に築いた壁が、少しずつ崩れていく。
どれだけ傷つけられても、楓花は十月十日、自分の体で育てた子だ。手をかけて育ててきた、実の娘。
一瞬、心がほどける。
横目で楓花を深く見た。幼い瞳の奥にあるのは、反省ではなく――取り入るような色。
分かっている。黒谷楓花は自分が悪いと理解したのではない。ただ、母親が冷たくなったことが受け入れられないだけだ。
南坂海乃は何も言わない。ただ、細い指で楓花の柔らかな髪をそっと撫でた。
許すなんて言えない。なかったことにもできない。
……でも、あと五日で彼女は去る。子ども相手に意地を張る必要もない。
黒谷楓花の顔がぱっと明るくなる。許されたと勘違いしたのだろう。嬉しそうに抱きついてくる。
「やっぱりママ、楓花のこと、嫌いになれないんだもん!」
黒谷優は内心で息を吐いた。なのに、南坂海乃の冷えた眼差しを見ると、なぜか落ち着かない。胸の奥が、ひやりとする。
探るように切り出した。
「楓花。あと四日で、ママの誕生日だろ。そのとき、ママにも盛大にパーティーしよう。いいか?」
黒谷楓花は目をまん丸にする。
「おばちゃんのパーティーみたいなやつ?」
黒谷優が頷くと、楓花は両手をぱちぱち叩いた。
「やったー! 楓花、かわいいドレス着たい! 大きいケーキも食べたい!」
そして、無邪気に付け足す。
「おばちゃんも来る?」
南坂海乃は伏し目がちに、はしゃぐ黒谷楓花を見た。佐藤詩乃の名前が出た瞬間、楓花の瞳はきらきら光った。
子どもの反応ほど正直なものはない。
黒谷楓花は佐藤詩乃が大好きだ。母である自分への好意など、比べものにならないほど。
さっきの揺らぎが、ひどく滑稽で惨めに思えた。
黒谷優は反射的に南坂海乃を見た。彼女は何の反応も示さない。黒谷優が唇を噛み、何か言おうとした、そのとき。
スーツの内ポケットのスマホが、ぶるぶると震えた。
取り出し、眉を寄せて通話に出る。
「……どちらさまですか」
受話口から切迫した女の声。
「佐藤詩乃さんのご家族の方ですか? 患者さんが急性のアレルギー症状を起こして、緊急で手術が必要です。ご家族のサインが要るので、至急来てください!」
「分かりました。今すぐ向かいます!」
黒谷優の顔色が変わる。電話を切るなり運転手へ命じた。
「病院へ戻れ」
運転手は一瞬ためらい、バックミラー越しにうかがう。
「ですが黒谷社長、奥様は……」
そこで黒谷優は、ようやく南坂海乃の存在を思い出したように視線を向ける。
しかし彼が口を開く前に、南坂海乃が淡々と言った。
「路肩に寄せて」
運転手は慌てて車を停める。南坂海乃はドアを開け、そのまま降りようとした。
黒谷優が眉をひそめる。
「何する気だ」
「タクシーで帰るだけ」
南坂海乃は眉を上げ、冷えた声で言い返す。
「まさか、この怪我であなたに付き添って病院まで行けって言うの?」
